今週、メキシコシティで静かな交渉が始まる。北米自由貿易のルールをどう書き換えるかの、三回目の話し合いだ。派手さはない。だが、ここで引かれる線は、これから十数年、私たちが買うものの値段に効いてくる。
今週のニュースの中で、いちばん地味で、いちばん長く効くのはこれかもしれません。北米自由貿易協定――今の名前でUSMCA――の見直し交渉です。米国とメキシコの三回目の二国間交渉が、今週メキシコシティで開かれます。
話を分かりやすくするために、時計と地図を用意します。
まず時計から。北米が「関税なしのひとつの市場」になったのは、1994年、NAFTAの発効からでした。狙いは単純です。賃金の安いメキシコ、資本と市場を持つ米国、資源のカナダ――三国の得意分野をひとつのサプライチェーンでつなげば、全体の効率が上がる。実際、自動車のように「部品が国境を何度もまたいで一台になる」産業が、この三十年、それを前提に組み上がってきました。
その協定が2020年にUSMCAへと衣替えし、今年、初めての本格的な見直し(合同レビュー)の時期を迎えました。協定には「一定の期間ごとに、続けるかどうかを三国で確かめる」という条項があります。今回まとまれば2042年まで延長され、まとまらなければ、北米貿易は先の見えない不確実さの中に入ります。
ここに今週、二つの締め切りが重なります。ひとつは、いま動いているメキシコシティの交渉。もうひとつは金曜(24日)で、米国が一時的にかけていた10%の上乗せ関税が期限を迎えます。これが切れると、協定の条件を満たさない品目は、通常の関税率(3〜4%程度)に戻る計算です。協定はもともと、カナダからの輸入の約8割、メキシコからの約9割を関税から外しており、この上乗せの有無は、家計の買い物にまで薄く広く効いてきます。
地図を広げると、強気の理由が見える
なぜ米国は、自国が主導して作った枠組みを、自分から揺らすのか。ここで地図の出番です。焦点のひとつが自動車の「原産地規則」――部品の何割を域内で作れば「北米製」と認めるか、という線引きです。いまのUSMCAは、その割合を自動車で75%と定めています。米国はこの基準をさらに引き上げ、そのうえで「米国内で作った分」を別に数えようとしています。狙いは二つ。ひとつは製造業を自国に引き戻すこと。もうひとつは、メキシコを経由して中国製の部品が北米市場に入ってくる裏口を、閉じることです。国は感情ではなく、地理と国内事情で動きます。今回の強気は、その両方の表れです。
1992年の大統領選で、ある候補はこの協定に反対し、「雇用がメキシコに吸い取られる巨大な音が聞こえる」と言いました。三十年あまりのち、ほとんど同じ懸念が、今度は協定を作り、育ててきた側の口から出ています。
ただ、当時と今では、決定的に違う点がひとつあります。1992年に守ろうとした相手は「外国から入ってくる完成品」でした。今の相手は「国境を何度もまたいで、途中まで自国で作られた部品」です。関税で締め上げようとすると、守りたいはずの自国の工場のコストまで、一緒に上がる。1994年に引いた「国境を消す」という線を、2026年に引き直そうとすると、その線に沿って自分の産業も切ってしまう――交渉が長引く本当の理由は、たぶんそこにあります。
一面では氷室が今週の相場の地図を描いています。関税は輸入物価に効き、物価は金利に効く。今週メキシコシティで引かれる一本の線は、来週のFOMCのテーブルの上にも、静かに載っています。